鎌倉殿の13人関連〜後鳥羽上皇第4皇子雅成親王御陵

承久の乱の少し前、源実朝が亡くなった後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇側に後鳥羽上皇の第4皇子である雅成親王を次の将軍にする要求を出しました。上皇側は拒否、その後承久の乱が起こり、上皇側は敗北して上皇は隠岐に流されました。雅成親王は現在の豊岡市高屋に幽閉され、30年後この地で亡くなられて葬られました。その墓所が同地にあり、現在、宮内庁が管理しています。そのとき、居住していた場所は黒木御所と呼ばれ、墓所から200m程の場所にあります。

 一方、雅成親王の妻は、夫に会いに京都から高屋に向かう道中、現在の豊岡市日高町松岡付近で疲れて休んでいました。お付きの女官が老婆に高屋までどれ位かかるかと訪ねたら20日ほどかかる言われ、それを聞いた妻は絶望して円山川に身を投げて亡くなられ、その後、川のたもとに姫を鎮魂する社を地元の人が作ったということです。それが、日高町松岡の十二所神社の始まりということです。また、お付きの女官も身を投げて遺体が城崎に流れ着き、城崎温泉の小学校横にある若上臈稲荷神社(わかじょうろう いなりじんじゃ)に祀られています。

上臈:身分の高い女性

墓所の入り口は、国道426号線から市立豊岡斎場への道路の右側で、目印は横断歩道です。道路横の空き地のようなスペースが雅成親王陵墓の入り口です。右側の階段の一番上に陵墓があります。

途中の広場から陵墓を見ています。

中段にある説明看板です。

陵墓です。中には入れません。

宮内庁の管理の看板。

陵墓から200m程のところにある黒木御所の跡です。雅成親王がここで住まわれました。

碑の拡大

次に日高町松岡の十二所神社

豊岡市日高町松岡にある十二所神社入り口。左の道路は国道312号線。国道482号線との交差点が見えます。神社の下にも駐車できそうなスペースがあります。

御社です。

十二所神社縁起の石碑。雅成親王の奥様である幸姫が老婆の虚言に絶望して入水したことを鎮魂して祀っている旨のことが書かれています。

神社の中の様子。この神社の敷地は円山川堤防の高さと同じでです。

神社の下の広場から神社の方を見ています。石垣の上に神社があります。

城崎温泉 若上臈稲荷神社。小学校のそばですので、お参りする際は気を付けてください。



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